2025年、日本のインターネット社会は大きな転換点を迎えます。長らく議論されてきた「改正プロバイダ責任制限法」が施行され、ネット上の誹謗中傷やプライバシー侵害に対する法的枠組みが大きく変わろうとしているからです。現在、企業や個人事業主、インフルエンサーにとって、ネット上の風評被害は事業継続を脅かす深刻なリスクとなっています。匿名性の高いSNSや掲示板で一度拡散されたデマや誹謗中傷は、瞬く間に信用を失墜させ、顧客離れや売上減少に直結します。しかし、従来の法律では、加害者の特定に時間と費用がかかり、被害回復が非常に困難でした。多くの場合、被害者は泣き寝入りをせざるを得ない状況に置かれていたのです。
このような状況を打開するために、今回の法改正では、被害者保護の観点から、発信者情報開示請求の手続きが大幅に簡素化・迅速化されます。具体的には、プロバイダに対する開示請求がより容易になり、複数のプロバイダをまたぐ複雑な手続きも一本化される見込みです。これにより、被害者は迅速に加害者を特定し、損害賠償を請求できる道が開かれます。しかし、この法改正は、単に被害者にとって朗報であるだけでなく、ネットサービスを提供するプロバイダや、ユーザーコンテンツを扱うプラットフォーマーにも大きな影響を及ぼします。彼らは、より迅速な情報開示に応じる義務を負うことになり、運用の見直しが迫られます。また、私たち一般ユーザーも、何気ない投稿がより厳しく法的責任を問われる可能性があることを認識する必要があります。

本記事では、2025年に施行される改正プロバイダ責任制限法の主要な変更点を、実務の視点から徹底的に解説します。
単なる法律の解説に留まらず、実際に企業や個人が誹謗中傷や風評被害に遭った際に、具体的にどのようなステップを踏めば良いのか、そしてその際に弁護士や専門機関とどのように連携すべきかを、詳細にわたってご紹介します。また、企業が今から取り組むべきリスクマネジメントや、個人の名誉を守るための具体的な行動についても解説します。この法改正を正しく理解し、備えることで、あなたのビジネスやプライバシーを確実に守るための第一歩となるでしょう。
改正法がもたらす「発信者情報開示請求」の劇的な変化
1. 請求手続きの簡素化と迅速化
改正プロバイダ責任制限法が最も劇的に変えるのが、発信者情報開示請求の手続きです。従来の請求手続きは、二段階の裁判を経る必要があり、非常に時間とコストがかかりました。まず、コンテンツプロバイダ(X、Facebook、ブログサービスなど)に対してIPアドレスの開示を求め、次にアクセスプロバイダ(NTT、KDDIなど)に対して契約者情報の開示を求めるという、煩雑なステップが必須でした。この複雑な手続きは、被害者が泣き寝入りする大きな原因となっていました。
しかし、改正法ではこの二段階の裁判を一本化する「発信者情報開示命令事件」という新たな裁判手続が創設されます。これにより、被害者は一つの手続きでコンテンツプロバイダとアクセスプロバイダの両方に対して開示命令を申し立てることが可能になります。この手続では、裁判所が命令を出すことで、プロバイダは迅速に情報開示に応じる義務を負うことになります。特に、裁判所の関与により、プロバイダが任意での開示に応じやすくなる効果も期待できます。この簡素化と迅速化は、被害者にとって、より現実的な救済手段となるでしょう。
従来の開示請求手続きの問題点
- 時間と費用の問題: 従来の二段階方式では、加害者の特定までに平均して半年から1年以上の期間と、数十万円単位の費用が必要でした。この負担が、被害者が法的措置をためらう大きな要因でした。
- 「時間切れ」による特定不能: 悪質な投稿者は、IPアドレスのログが一定期間で消去されることを知っているため、削除要請や開示請求が遅れると、証拠が失われ特定が不可能になるケースが多発していました。
- 精神的負担の増大: 長期間にわたる裁判手続きは、被害者に対し、精神的なストレスを継続的に与え続けました。
新しい「発信者情報開示命令事件」の具体的な流れ
- 申立て: 裁判所に対し、コンテンツプロバイダとアクセスプロバイダの両方を相手方として、開示命令を申し立てます。
- 審理: 裁判所は、当事者双方の意見を聴取し、開示の必要性や違法性について審理を行います。
- 命令: 裁判所が、投稿が名誉毀損やプライバシー侵害に該当すると判断すれば、プロバイダに対し、発信者情報の開示を命じます。
- 情報開示: 命令を受けたプロバイダは、迅速に指定された情報を被害者側に開示します。
この手続きは、従来の裁判よりも迅速に進むことが期待されており、被害者が泣き寝入りするケースを大幅に減らす効果があります。
2. 電話番号など、開示対象情報の拡大
これまでの発信者情報開示請求では、原則としてIPアドレスとタイムスタンプしか開示対象とされていませんでした。しかし、SNSなどのサービスでは、ユーザーがIPアドレスを固定していなかったり、頻繁にIPアドレスが変わったりすることが多く、開示された情報だけでは加害者を特定できないケースが多発していました。
改正法では、従来のIPアドレスやタイムスタンプに加え、電話番号やメールアドレス、氏名、住所、ログイン時の識別符号など、より広範な情報が発信者情報として開示の対象となります。特に、SMS認証などで使用される電話番号が重要な役割を果たすようになります。この情報の拡大により、被害者は開示された情報をもとに、加害者の身元をより確実に特定しやすくなります。これにより、誹謗中傷を行った加害者が「特定されないだろう」という安易な考えで行動することが難しくなり、ネット上のモラル向上にも繋がる可能性があります。
具体的な開示対象情報の詳細
- 氏名、住所: 契約者情報として最も重要な情報であり、損害賠償請求の際に不可欠です。
- 電話番号、メールアドレス: 携帯電話会社や通信事業者の契約情報と紐づく重要な情報です。特に、最近のSNSではSMS認証やメールアドレス認証が必須となっているため、これらの情報が特定につながる可能性が高くなります。
- ログイン時の識別符号: ユーザーIDやアカウント情報など、サービス内で個人を識別する情報も開示対象に含まれます。
これらの情報の開示が認められることで、被害者は特定された加害者に対し、民事訴訟による損害賠償請求だけでなく、警察への被害届提出による刑事告訴も視野に入れることができます。
企業・事業者が今すぐ取り組むべきリスクマネジメント
1. 風評被害発生時の初動対応マニュアル策定
企業や個人事業主にとって、ネット上の誹謗中傷は事業継続を脅かす大きなリスクです。特に、従業員による不適切なSNS投稿や、競合他社からの悪質なデマ投稿は、企業の信用を瞬く間に失墜させます。このような事態に備え、改正法を念頭に置いた「風評被害発生時の初動対応マニュアル」を策定することが不可欠です。
マニュアルには、いつ、誰が、どのように対応するかを具体的に明記します。まず、風評被害を発見した際の報告体制を明確にし、情報収集と証拠保全の担当者を指定します。次に、その情報を法務担当者や外部の専門弁護士に速やかに共有するフローを確立します。証拠保全では、スクリーンショットだけでなく、投稿のURL、日時、ユーザー名などを詳細に記録することが重要です。この初動対応の迅速さが、その後の被害拡大を防ぐ鍵となります。マニュアルに沿って、法改正後の開示請求手続きを想定した具体的な行動計画を盛り込むことで、いざという時に冷静かつ迅速に対応できる体制を整えられます。
マニュアルに含めるべき具体的な項目
- 監視体制の構築: 自社や商品・サービスに関するキーワードを定期的に検索し、悪評やデマを早期に発見する体制を構築します。
- 証拠保全の方法: 投稿内容、URL、日時、ユーザー名、ウェブ魚拓など、正確な証拠を保全するための具体的な手順を明記します。
- 関係部署との連携: 広報、法務、人事など、関係部署の役割と責任を明確にし、迅速な情報共有のフローを定めます。
- 法的措置の検討: 削除請求、開示請求、損害賠償請求などの法的手段を検討する際の判断基準や、弁護士との連携方法を盛り込みます。
2. 従業員向けSNSガイドラインの徹底
従業員による不適切なSNS投稿、いわゆる「バイトテロ」や「従業員テロ」は、企業に甚大な損害を与える可能性があります。改正法では、従業員個人が発信者情報開示の対象となりやすくなるため、企業として従業員の行動を管理・指導する責任も一層重くなります。
企業は、すべての従業員に対して「SNSガイドライン」を徹底的に周知させる必要があります。ガイドラインには、業務に関連する情報の発信の禁止、プライベートな投稿でも企業ブランドを毀損しないよう注意を促すこと、そして万が一問題投稿をしてしまった場合の報告義務などを盛り込むべきです。また、ガイドラインを単に配布するだけでなく、定期的な研修や勉強会を実施し、従業員一人ひとりの意識を高めることが重要です。これにより、従業員の不適切な投稿によるリスクを未然に防ぎ、企業のブランドイメージを守ることができます。
SNSガイドラインの策定と教育のポイント
- 就業規則への明記: SNS利用に関する規定を就業規則に盛り込み、違反した場合の懲戒処分についても明記します。
- 具体的な事例の提示: 過去の炎上事例や、プライベートな投稿がなぜ問題となるのかを、具体的な事例を挙げて解説することで、従業員の理解を深めます。
- 報告義務の徹底: 問題のある投稿を発見した場合、または自らがしてしまった場合に、速やかに企業に報告する義務を明確にします。
- 「デジタルタトゥー」の概念の周知: ネットに一度投稿した情報は、未来永劫消えない「デジタルタトゥー」となることを教え、安易な投稿の危険性を理解させます。
個人が自らの名誉とプライバシーを守るための具体的ステップ
1. 誹謗中傷を発見した際の証拠保全
改正法により、発信者情報開示請求の手続きは簡素化されますが、それでも最も重要なのは「適切な証拠保全」です。誹謗中傷やプライバシー侵害に遭った際、感情的になってすぐに投稿を削除するよう運営に通報しがちですが、それでは証拠が失われてしまい、その後の法的手続きが困難になることがあります。
まず、誹謗中傷の投稿を発見したら、投稿そのものを削除する前に、スクリーンショットや画面録画で証拠を保全します。この際、投稿内容だけでなく、投稿日時、投稿者のユーザー名(ハンドルネーム)、投稿が掲載されているURLを、漏れなく記録することが非常に重要です。また、複数の投稿がある場合は、それらを時系列に整理しておきましょう。これらの証拠は、後に行われる開示請求や損害賠償請求の際に、裁判所に提出する重要な証拠となります。
証拠保全の具体的な方法
- スクリーンショット: 投稿内容全体、URL、日時、ユーザー名などが全て収まるように撮影します。複数枚にわたる場合は、一連の流れがわかるように撮影します。
- ウェブ魚拓: 投稿が削除されるリスクに備え、ウェブ魚拓サービスなどを利用して投稿内容をアーカイブしておきます。これは、裁判での証拠能力が高いとされています。
- 画面録画: 投稿が動的なウェブサイトや動画の場合、画面録画ソフトを使用して、投稿内容とその状況を丸ごと記録します。
2. 専門家への相談と連携
法改正によって手続きが簡素化されたとはいえ、発信者情報開示請求は複雑な法律手続きであり、一般の個人がすべてを自力で行うのは非常に困難です。そのため、誹謗中傷被害に遭った際には、インターネット上のトラブルに詳しい専門の弁護士に相談することが最も有効な手段です。
弁護士は、あなたの状況を詳細にヒアリングし、証拠保全の方法から、開示請求の法的要件、そして具体的な手続きの流れまでを丁寧にアドバイスしてくれます。また、プロバイダとの交渉や裁判所への申立て、さらには加害者特定後の損害賠償請求までを一貫してサポートしてくれるため、被害者の精神的・時間的負担を大幅に軽減できます。ネット削除協会のような専門機関も、相談窓口として有効です。これらの専門家と連携することで、より確実に、そして迅速に被害回復への道を開くことができるでしょう。
弁護士に依頼するメリット
- 法的手続きの代行: 煩雑な書類作成や裁判所への申立てをすべて代行してくれます。
- プロバイダとの交渉: 任意での情報開示に応じてもらうための交渉を、弁護士が代理で行うことで、成功率が高まります。
- 法的要件の判断: 投稿内容が法的に開示請求の要件を満たすかどうかの判断を正確に行い、無駄な手続きを避けることができます。
- 損害賠償請求のサポート: 加害者が特定された後、損害賠償額の算定や示談交渉、訴訟手続きをサポートしてくれます。
改正法が描く未来のインターネット社会と我々の役割
1. 「匿名性の弊害」を克服する一歩
今回の改正プロバイダ責任制限法は、インターネット上の匿名性の弊害を克服するための大きな一歩と言えます。これまで、匿名性を盾にした無責任な発言や悪質な投稿が横行し、多くの人々が深く傷つけられてきました。しかし、加害者の特定が容易になることで、「匿名だから何を言ってもいい」という無責任な風潮に歯止めがかかることが期待されます。これにより、インターネットはより健全なコミュニケーションの場へと進化するでしょう。
しかし、この法改正がすべてを解決するわけではありません。技術の進化とともに、新たなプライバシー侵害や誹謗中傷の手法が生まれる可能性は常に存在します。私たちは、この法改正を契機に、インターネットを安全に利用するためのリテラシーを一人ひとりが高めていく必要があります。何が誹謗中傷にあたるのか、安易な情報拡散がどのようなリスクをもたらすのかを理解し、責任ある行動を心がけることが、健全なインターネット社会を築くために不可欠な要素となります。
健全なインターネット社会を築くためのリテラシー
- 「表現の自由」と「他者の権利」のバランス: 自分の意見を自由に発信する権利は重要ですが、それが他者の名誉やプライバシーを侵害しないよう、常に配慮が必要です。
- 情報の信憑性の確認: ネット上の情報を鵜呑みにせず、発信元や根拠を常に確認する習慣を身につけることが重要です。安易なリツイートやシェアが、デマの拡散に加担してしまう可能性があります。
- 倫理的な投稿の意識: 匿名であっても、現実世界と同じように他者への敬意を払った上で投稿を行うという倫理観を持つことが求められます。
2. ネット削除協会の役割と今後の展望

一般社団法人ネット削除協会は、今回の法改正を追い風に、より多くの被害者を救済するための活動を強化していきます。
具体的には、被害者からの相談窓口を拡充し、専門の弁護士や関係機関との連携を密にすることで、迅速な対応を実現します。また、法改正の内容や、具体的な削除・開示請求の手続きに関する情報発信を積極的に行い、一人でも多くの人が適切な対応を取れるよう啓発活動にも力を入れます。
ネット上のトラブルは、もはや他人事ではありません。企業、個人、そして社会全体が協力して、誰もが安心してインターネットを利用できる環境を築き上げていく必要があります。今回の法改正は、そのための重要な第一歩です。私たちネット削除協会は、今後も皆様の安全なインターネットライフをサポートし、健全な情報社会の実現に向けて尽力してまいります。
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